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第二次世界大戦後のドイツの分割から再統一にいたる一連の動きは,アメリカとソ連を中心とする国際社会の動向と密接に関係している。

 大戦後,ドイツはアメリカ,イギリス,フランスおよびソ連の 4 か国によって分割占領されていたが, 1947 年以降、東西両陣営の対立が激化するようになると,アメリカ,イギリス,フランスの西側管理地区とソ連の管理地区との分離は決定的となり,西側管理地区からはドイツ連邦共和国(西ドイツ)が,そしてソ連管理地区からはドイツ民主共和国(東ドイツ)が誕生した。西ドイツは軍事的にはアメリカ,カナダおよび西欧諸国によって組織された北大西洋条約機構( NATO )に組み込まれ,経済的にはヨーロッパ復興のための国にマーシャルプランによってアメリカの援助を受けるとともにヨーロッパ経済共同体( EEC )の一員として西ヨーロッパへめ統合を推し進めていった。一方,東ドイツはソ連の軍事的指導のもとで結成されたワルシャワ条約機構( WTO )に属し,経済的にはマーシャルプランに対抗して結成された経済相互援助会議( COMECON )に加盟し,社会主義への道を進んだ。

 1960年代に入ると,東西両陣営の対立は緊張緩和,平和共存の方向に動いていることが明確になった。1962年のキューバ危機が克服され, 1963年には部分的核実験停止条約,1968年には核拡散防止条約が調印された。こうした緊張緩和の流れを受けて, 1969年に政権についた西ドイツのブラント首相は東西協調をめざす東方政策を打ち出し,ソ連,東欧諸国との関係を正常化していった。 1972年には東西両ドイッ基本条約が調印され,両国は共存関係に入った。同時に,これによって東西両陣営および中立国を含めて,ヨーロッパの問題に関係する35か国首脳の会議を開くための阻害要件が取り除かれた。この会議は 1975年に開かれ,国境の不可侵,武力不行使,主権平等などをうたったヘルシンキ宣言を採択した。

 こうして国際関係は緊張緩和に向かったとはいえ,両ドイツ国家は東西陣営に堅く組み込まれており,ドイツ統合はまったく問題にならなかった。ところが,1985年にソ連でゴルバチョフ政権が登場すると,状況は変わってきた。この政権は政治・経済の改革やグラスノスチ(情報公開)を推進したが,これらの改革は東欧諸国へ波及していった。東ドイツ政府は当初こうした改革を阻止し,社会主義政治体制を維持しようとした。しかし,東ドイツ市民の西側への大量流出を止めることができず,1989 11月には東西対立の象徴であったべルリンの壁が崩壊した。同年12月には米ソ首脳によるマルタ会談が行われ,戦後世界の枠組みをなしてきたヤル夕体制に終止符を打った。翌年3月には東ドイツ40年の歴史の中で最初の自由選挙が行われ,ドイツ再統一を訴える政党が圧勝した。こうして同年10月,ドイツ統一が実現した。


次の文章の中から内容の正しいものを三つ選び,その記号を答えよ。
ヨーロッパ経済共同体( EEC )は 1958 年に発足したが,西ドイツは翌年に加盟が認められ,その後主導的役割を演じるようになった。
 →西ドイツは創設メンバーであった。
1972年の東西両ドイツ基本条約によって両国の平和共存が実現したが,翌年には両国はそれぞれ単一国家として国連への加盟が認められた。
1990 年のドイツ再統一の翌年には,統ードイツは安全保障理事会の常任理事国に選ばれ,国連において重要な役割をになうようになった。
ドイツ統一によって,西ドイツマルクと東ドイツマルクはともに廃止され,新しいドイツマルクが発行された。
 →東ドイツのマルクは西ドイツのマルクに統合された。
統ードイツは,軍事的には北大西洋条約機構に属し,東ドイツに駐留していたソ連軍は段階的に撤収することになった。

日本は西側陣営の一員として,西ドイツとは国交を結んだが,東ドイツとはドイツ統一にいたるまでついに国交を正常化することはなかった。


東西ペルリンは 1990 年のドイッ統一によって再び統合され,ドイツの首都に復帰した。


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