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第二次世界大戦後界大戦後の日本がどのように国際社会へと復帰していったのかを理解する。


日本が国際社会に初めて本格的に参入したのは明治維新後であった。しかし,日本は近代国家への脱皮を急ぐあまり富国強兵政策を強行し,ついにはその結果,強大化した軍事力によって他国を侵略するという愚を犯すことになってしまった。第二次世界大戦後は,この反省にたって,平和国家として国際社会に復帰することを願い国際連合への加盟を求めていたが,その安全保障理事会の常任理事国となっていたソ連の拒否権にの行使にあって一時加盟を阻まれていた。しかし,195612月の国連総会でソ連を含む全会一致の票決により加盟が承認された。日ソ共同宣言が結ばれていた為に実現できたのである。

こうして国際社会への復帰を実現した日本は,国連を中心とした外交を展開していくことになるが,折りからの冷戦のもとで,この時すでに日本は西側陣営に組み込まれていた。すなわち,外交の基本として国連中心主義を掲げながらも,その国連自体が冷戦の場となっていた現実から自由主義諸国との国との協調を優先し,対日サンフランシスコ平和対条約調印と同時に日米安全保障条約を締結して,結果的にソ連などの東側陣営との対立関係に入ることになったのである。

しかし同時に,日本独自の平和政策も推進された。それは例えば,非核三原則であり,武器輸出三原則である。もっとも,これらの原則も現在ではなし崩しにされてきており,国際社会復帰の実現に燃えていた当時とは比ぶるべくもない。

それでもなお,今日,巨大な経済力をもつに至った日本に対して国際社会での一層の貢献を期待する声が極めて大きくなっている。平和主義を標榜してきた日本としては,世界の平和的秩序構築のため,その声に応えるべく積極的なイニシアチブを発揮していかねばならない。




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第二次世界大戦後のドイツの分割から再統一にいたる一連の動きは,アメリカとソ連を中心とする国際社会の動向と密接に関係している。

 大戦後,ドイツはアメリカ,イギリス,フランスおよびソ連の 4 か国によって分割占領されていたが, 1947 年以降、東西両陣営の対立が激化するようになると,アメリカ,イギリス,フランスの西側管理地区とソ連の管理地区との分離は決定的となり,西側管理地区からはドイツ連邦共和国(西ドイツ)が,そしてソ連管理地区からはドイツ民主共和国(東ドイツ)が誕生した。西ドイツは軍事的にはアメリカ,カナダおよび西欧諸国によって組織された北大西洋条約機構( NATO )に組み込まれ,経済的にはヨーロッパ復興のための国にマーシャルプランによってアメリカの援助を受けるとともにヨーロッパ経済共同体( EEC )の一員として西ヨーロッパへめ統合を推し進めていった。一方,東ドイツはソ連の軍事的指導のもとで結成されたワルシャワ条約機構( WTO )に属し,経済的にはマーシャルプランに対抗して結成された経済相互援助会議( COMECON )に加盟し,社会主義への道を進んだ。

 1960年代に入ると,東西両陣営の対立は緊張緩和,平和共存の方向に動いていることが明確になった。1962年のキューバ危機が克服され, 1963年には部分的核実験停止条約,1968年には核拡散防止条約が調印された。こうした緊張緩和の流れを受けて, 1969年に政権についた西ドイツのブラント首相は東西協調をめざす東方政策を打ち出し,ソ連,東欧諸国との関係を正常化していった。 1972年には東西両ドイッ基本条約が調印され,両国は共存関係に入った。同時に,これによって東西両陣営および中立国を含めて,ヨーロッパの問題に関係する35か国首脳の会議を開くための阻害要件が取り除かれた。この会議は 1975年に開かれ,国境の不可侵,武力不行使,主権平等などをうたったヘルシンキ宣言を採択した。

 こうして国際関係は緊張緩和に向かったとはいえ,両ドイツ国家は東西陣営に堅く組み込まれており,ドイツ統合はまったく問題にならなかった。ところが,1985年にソ連でゴルバチョフ政権が登場すると,状況は変わってきた。この政権は政治・経済の改革やグラスノスチ(情報公開)を推進したが,これらの改革は東欧諸国へ波及していった。東ドイツ政府は当初こうした改革を阻止し,社会主義政治体制を維持しようとした。しかし,東ドイツ市民の西側への大量流出を止めることができず,1989 11月には東西対立の象徴であったべルリンの壁が崩壊した。同年12月には米ソ首脳によるマルタ会談が行われ,戦後世界の枠組みをなしてきたヤル夕体制に終止符を打った。翌年3月には東ドイツ40年の歴史の中で最初の自由選挙が行われ,ドイツ再統一を訴える政党が圧勝した。こうして同年10月,ドイツ統一が実現した。


次の文章の中から内容の正しいものを三つ選び,その記号を答えよ。
ヨーロッパ経済共同体( EEC )は 1958 年に発足したが,西ドイツは翌年に加盟が認められ,その後主導的役割を演じるようになった。
 →西ドイツは創設メンバーであった。
1972年の東西両ドイツ基本条約によって両国の平和共存が実現したが,翌年には両国はそれぞれ単一国家として国連への加盟が認められた。
1990 年のドイツ再統一の翌年には,統ードイツは安全保障理事会の常任理事国に選ばれ,国連において重要な役割をになうようになった。
ドイツ統一によって,西ドイツマルクと東ドイツマルクはともに廃止され,新しいドイツマルクが発行された。
 →東ドイツのマルクは西ドイツのマルクに統合された。
統ードイツは,軍事的には北大西洋条約機構に属し,東ドイツに駐留していたソ連軍は段階的に撤収することになった。

日本は西側陣営の一員として,西ドイツとは国交を結んだが,東ドイツとはドイツ統一にいたるまでついに国交を正常化することはなかった。


東西ペルリンは 1990 年のドイッ統一によって再び統合され,ドイツの首都に復帰した。


が答え





○ 授業の目的

 自由電子の流れを復習。原子との関連性。電解質と非電解質。

 中性子や原子核についての説明

   *高校分野になるような深入りはしないこと

 化学電池の電子の動き、発生気体、何故発生するのかを図解で説明していく

上記項目を1コマでざっくりと伝えていく感じ。完全理解は求めない。



○ 授業時の展開方法

自分独自のアニメーション入りパワーポイントを用いる。

演習と解説時間を10分程度。



要演習用プリント

作成済みスクリプトで要確認





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