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1880年代から第一次世界大戦前ぐらいまでに行われた「アフリカ分割」

何故、エチオピアとリベリアは植民地にされなかったのか。

【エチオピア】
  • 当時は強力な中央集権体制がしかれており、近代的な軍備を持っていたこと。
  • 立地的に国自体が交通不便な断崖上の高原にあったこと。

【リベリア】

  • アメリカが、アメリカの黒人奴隷をアフリカに送還し、祖国を建国させようという運動から起こった国だったから。








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【明治新政府のもと進められた北海道開拓事業】

北海道開拓のために、政府内に開拓使という官庁が設定されてた。
その開拓使長官であったのが黒田清隆(薩摩出身)

あらかた開拓も進み、政府としての所定の役目を果たしたので、
明治十五年(1822年)にその開拓使が廃止になる事が決定。


黒田は事業を継承させる為に、官有の施設や設備を安値で払い下げることにした。
どのくらいの安値かといえば、事業そのものが赤字であった為、およそ1400万円の
費用を掛けたものを38万円で払いさげるというものであった。

その払い下げを引き受けることになったのが五代友厚(薩摩出身)が経営する
関西貿易会社。

これに対して政府内でも批判の声があがり、特に反対をしたのが払い下げの規約を
作成した前大蔵卿の大隈重信であった。

その折、同郷のよしみでの汚職として、新聞紙上で大きく取り上げられました。
「これは反対していた大隈のリークに違いない」と疑われました。

盛り上がりを見せていた自由民権派を中心にした世論全体が、ここぞとばかりに
薩長中心の
藩閥政治を非難し、国会の即時開設を要求したため、明治政府は
大ピンチに立たされる事に
なったのです。


最終的手段として、伊藤博文らは藩閥政府への不満沈静化のために収束案を
決定します。
それは天皇に裁許を仰ぎ、官有物払い下げの中止と十年後には
国会を開催するという事を
決定。そして、大隈を失脚させたのです。
「明治十四年の政変」


政府を去った自由党の板垣退助、立憲改進党の大隈重信・・・



年代
できごと
1215 マグナ・カルタ
1689 権利(の)章典
1776 アメリカ独立宣言
1789 フランス人権宣言
1889 大日本帝国憲法
1919 ワイマール憲法
1946 日本国憲法
1948 世界人権宣言
1966 国際人権規約
1989 子どもの権利条約


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